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多田等観 チベット滞在記

多田等観氏のチベット滞在記を買った。
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チベットはブータンを挟んでバングラデッシュの北に位置する。1年でチベット語を話せるようになったばかりでなくダライラマ13世から全幅の信頼を得、しかも誰からも慕われる気さくな方だった、という何とも羨ましい方。アマゾンで見つけた非常に詳しい井頭山人さんのレビューをコピペする。「人は自らの死を、自然なものとして受け入れる事が出来るまで長い時間を必要とする。命には始まりがあり、終わりが在る事は、自明の理であるにも係わらず、我々は常々自らの終焉を忘れて生きている。このチベット滞在記は、秋田の真宗寺院に生まれた多田等観の、不思議な縁でのラマ教との出会いの記録である。等観が始めに書いているように、彼は秋田市の港に近い浄土真宗西本願寺派の寺に生まれて兄弟が多く、経済的に全ての子供たちに高等教育を施すことは困難な状態であった。彼の弟は小学校を終えると京都西本願寺の大谷光瑞の下で英才教育を受ける形で京都に出た。等閑は1910年、旧制秋田中学を終えると、旧制高等学校に入るべく京都でアルバイト先を探していた。そして学費を貯めて、三高あたりに入ろうとしたのであろう。その時、彼の弟の関係で西本願寺法主大谷光瑞の知遇を得る事となる。此処から多田等観の異彩な人生の旅路が始まる。当時、1911年、チベットからダライラマ13世の信書を持って一人の僧侶と二人の従者が京都の西本願寺にやって来た。しかし、本願寺にはチベット語の堪能な日本人が居ない為に、大谷光瑞は等観にその仕事を命じる。等観は才能のある青年であった、3人のチベット人に日本語を教えると同時に彼は彼らが日本語を習得する時間よりも早くチベット語を身に付けたが、ただ、問題がひとつ起きた。それは等観がおしえた日本語が「秋田弁」であったと云うことである。大谷光瑞ががチベット人と話してみると、殆ど通じない日本語であって、京都弁と秋田弁では話がかみ合わない。そんな訳で等観は光瑞に日本語教師の役目を中止させられる。1年の後、チベット人が帰国する際に、光瑞は等観にインドまで送って行く事を命じた。最初、この命を渋って居た等観であったが、光瑞の再三の命により折れて従うことになる。彼が秋田から出て来た基本的な目的が、高等学校に入って帝国大学に進むことで有ったから、後から彼の人生を回顧すれば、この決断が人生の分かれ道であった様に思われる。西欧が唯一の文明だと思われていた明治の半ば、仏教では飽くまででも東洋の精神的基盤であり釈尊の創設した仏教の真の言説と仏典の採取を大谷光瑞が目指した事は、その方向性としては当然の事の様に思われる。1910年代の国際情勢は列強の鍔競り合いが為されており、チベットは現在の様に侵略の災厄に塗れていた。ダライラマ13世の知遇を得てチベット仏教(ラマ教)をセラ寺に学ぶこと10年、多田等観は西蔵の文化・習慣・民俗・政治・寺院・等々、驚くべき知識を築き上げた。10数年の後、彼が帰国したとき、日本に持ち込んだ仏具・経典の数は膨大な物量に上ったという。その中でも9世紀にインドで滅亡した仏教の多大な経典が持ち込まれた、特に西蔵大蔵経は、質と量に於いて最大の宝物であった。パーリ語やサンスクリット語の経典は、チベット語に翻訳されて集積されたものが大蔵経と呼ばれる物で、ダライラマ13世は等観の帰国に際し、新たに全国から古い経典を印刷し等観に送ったのであった。それは多田等観が、10年にわたるチベット仏教の修行を通じて得た知見と国際情勢に関するアドバイスに対する感謝の印でもあった。その上に等観は西蔵仏教の習得に関して最高の栄誉である博士の称号を得る。10年に亘る修行は等観をチベット学の第一人者にしたと云えよう。」
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井頭山人

本日、小生の駄文をご紹介いただいて居る事を発見しました。誠に恐縮でございます。眼科を開業なさっているとか。小生も白内障気味で日光が眩しく、常にサングラスが手放せません、困ったことです。
by 井頭山人 (2018-10-13 16:11) 

uppaship

コメントに気づくのが遅れて申し訳ありませんでした。こちらこそコメントありがとうございます。
by uppaship (2019-01-27 21:50) 

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